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赤猫丸平の片付かない部屋

Une chambre mal organizée

キカイ湯 銭湯遺跡探訪(23)

東京銭湯の代表的なイメージに、浴室正面の壁に描かれた富士山のペンキ絵(背景画)がある。神田猿楽町にあった「キカイ湯」は、そのペンキ絵の発祥の地とされる。このことは、庶民文化研究家の町田忍により紹介され(町田忍『銭湯へ行こう・旅情編』(TOTO出版、1993年)113-131頁など)、ひろく世に知られるようになった。いまや「キカイ湯跡」とインターネットで検索すると、Googleマップに位置が表示されるまでになっている。その跡地を訪ねる。

駿河台の南西麓に広がる神田猿楽町。かつては1、2階建ての木造家屋が軒を連ねる下町であったが、生活の匂いのないビル街となっている。現在の住居表示で千代田区猿楽町2-7-1にキカイ湯はあった。写真中央、道の左側の7階建のビルが「TOHYU(東雄)ビル」(1988年竣工)、その手前にガレージ、さらに手前には木造2階建の「第三新樹」。


「TOHYUビル」の玄関脇に「キカイ湯跡」の案内板が設置されている。

「明治17年(1884)に祖父、東 由松(1852-1917)はこの地に銭湯キカイ湯を建てて開業した。汽船のボイラー(機械釜)を他店に魁けて取り付けたことを記念して店名を付けた。/大正元年(1912)父、東 雄三郎(1880-1953)は、旧店の隣りに新キカイ湯を増築して、その浴室の壁面に新規発想によるペンキ絵を掲げた。公衆浴場史(昭47年発行)に、“……ところが、この絵が満都の評判となり、市内各湯もこれにならって思い思いの絵をかかせて浴客を喜ばせ……”とある。/キカイ湯は、大正12年(1923)の震災と昭和20年(1945)の戦災とに2回全焼したが、その都度復興して営業を続けた。ついに、昭和46年(1971年)に近隣に惜しまれつつ87年間続けた店を閉じた。/このTOHYU(東雄)ビルの名称は、父の名を宿している。/平成4年(1992)3月吉日」

ところで、案内板は「TOHYUビル」に設置されており、Googleマップでも同ビルの位置に「キカイ湯跡」のピン(マーカー)が表示されるが、これは正確ではない。


上のGoogleマップ(2018年12月30日取得)と下の『全住宅案内地図帳 千代田区 昭和38年度版』(住宅協会、1963年5月7日発行)を比べると、キカイ湯は「TOHYUビル」西隣のガレージと「第三新樹」、その奥の「新樹ビル」(1979年竣工)の位置にあったことが分かる。「TOHYUビル」の敷地には経営者の住居があった。このことは、キカイ湯を利用していたことのある近隣住民への聞き取りによっても裏づけられた。

キカイ湯跡地のガレージ、第三新樹、新樹ビル。案内板や記念碑の位置と実際の跡地とがずれることはときどき起こるので、注意が必要である。「渋谷浴泉」の跡地を訪ねた記事のなかで言及した「竹久夢二居住地跡」の碑もそのような例であった。

東堯(あずま・たかし)『米寿、志してやり抜いた話』(青娥書房、1999年)。キカイ湯を創業・経営した東家の三代目であり、廃業を見届けた著者が米寿を機に刊行した自分史。前半(9-58頁)の「キカイ湯物語 篇」でキカイ湯の歴史を詳述しており、市井の一銭湯としては珍しく文献に拠ることができるわけである。1992年に前出の案内板を設置したのも同人である。なお、著者自身は東芝で定年まで勤務した照明の研究者であり、実際に銭湯に従事したのは妻や娘婿夫婦だったようである。

1971年4月のキカイ湯(前掲書41頁)。1945年4月13日の空襲で焼失してから4年後、1949年11月に再建された建物である。廃業理由のひとつに建物施設の老朽化が挙げられており、戦後の物資窮乏下で建築されたためか、20年余りで耐用年数を迎えてしまった。
2018年10月28日訪。

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