天徳湯(麻布谷町) 銭湯遺跡探訪(10)
半世紀近く前に廃業した天徳湯(港区六本木1-3、住居表示実施以前は麻布谷町47)の跡を訪ねる。廃業後も残っていた煙突の上から魚眼レンズで写した写真(飯村昭彦撮影)が赤瀬川原平『超芸術トマソン』(1985年、白夜書房)の表紙を飾ったことで、天徳湯の名は後世に残ることになった。
赤瀬川原平『超芸術トマソン』48頁。高台には霊南坂教会がみえる。
1969年の住宅地図(上)では天徳湯の記載があるが、1970年の住宅地図(下)では駐車場となっている。件の写真が撮影されたのは1983年頃で直後に煙突は解体されたので、10年以上もの間、「無用煙突」として麻布谷町に佇立し続けたことになる。
アークヒルズの建設で地形と街区が大きく変化したため、正確な位置の特定は困難である。西光寺と道源寺の南側の坂道(道源寺坂)の形状が比較的保たれていたので、これを手がかりに比定することができた。アークタワーズイースト(1986年3月竣工)の東側、アークガーデンと接するあたりが天徳湯の跡地である。
谷町ジャンクションあたり。地名としては消えたが、首都高の要衝に谷町の名は残った(同様の例として、高樹町出口、中野長者橋出口など)。この近くに人々のささやかな暮らしがあったとは信じがたい。
かつての麻布谷町の町域を東西に貫く「スペイン坂」。大規模再開発によって生まれた坂である。
アークタワーズイーストの東側の道。『超芸術トマソン』48頁の写真は道源寺坂の上から北東方向をみたものと推測されるが、麻布谷町がかなりの窪地にあったことが分かる。天徳湯の横から六本木1丁目の高台に上る雁木坂は急峻な階段であった(後掲の参考文献によると高低差は建物で5階相当以上であった。)。再開発で盛土がされた結果、現在ではゆるやかな坂道となっている。もちろん、天徳湯の痕跡は一切みあたらない。
天徳湯の跡地からは少しずれているものの、アークタワーズイーストの北側に煙突らしきものがあった。サントリーホールの排気口であろうか。これをもって天徳湯を偲ぶほかない。
アークヒルズの竣工後、現地を訪れた赤瀬川もこの「エントツ」を見つけ、次のように記した。
やはりただの偶然だろうか。
しかし偶然というには、それが重なりすぎていると思うのである。むかし谷町のこの場所には銭湯があった。銭湯といえば町一番の火を燃やすわけで、町民はみんなそのお湯につかっていた。いわばこの町の熱源が置かれていた場所なのである。その町全体が削り取られて、まったく新しい「全環境都市」が造り直されながら、そのアークヒルズの熱源とでもいえるものが、そっくり同じ位置に出来上がっている。しかも同じ位置に同じ太さの同じ高さのエントツを重ねて。
やはり亡霊が出たのだ。コンクリートで固められた亡霊である。
企業の経済原則にも隙間があったのだろう。すべての効率を計算してこのアークヒルズは設計されている。その計算の中に、天徳湯のエントツの霊が滑り込んでいたのだ。あるいはこの麻布谷町の地形に潜む霊かもしれない。それともエントツのてっぺんの切り口に立った飯村君のパフォーマンス霊ということも考えられる。そのようなものが企業の計算の数字の隙間にすべり込んで、設計図を制御し、コンクリートを動かして、この位置にもう一度エントツとなってあらわれてしまった。
というような考えは、また冗談の混入したものだと思われるかもしれない。しかしアークヒルズに行けば、その場所に白い垂直の蛇のようなコンクリートのエントツが、場違いな様子で立っているのがまぎれもなく見えるのである。赤瀬川原平「「全環境都市」アークヒルズに天徳湯のエントツの霊がすべり込んでいた」中央公論1986年8月号330-337頁、引用箇所は337頁。
参考文献:アークヒルズ草創期 私の再開発原風景 筆者は森ビルの従業員としてアークヒルズの建設に携わった人物らしく、再開発前夜の麻布谷町の様子を克明を記録する。麻布谷町の貴重な写真も収められており、天徳湯に関する記述もある。
この地図が大変興味深く、自分の個人的なブログhttps://ameblo.jp/eno-sawan/に拝借できたらと思い、ご連絡いたします。いかがでしょうか。よろしくお願いいたします。