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赤猫丸平の片付かない部屋

Une chambre mal organizée

渋谷区の銭湯の変遷 補遺

(1)「文化湯」(渋谷区代官山町17-23)
1995年9月30日廃業。同潤会代官山アパートの23号館にあったが、大規模再開発により「代官山アドレス」の敷地となっている。

1995年
文化湯(代官山)1995

2000年 「代官山アドレス」建設中。
文化湯(代官山)2000

2015年 文化湯の跡地は「代官山アドレス・ザ・タワー」(地上36階建)北西の「アドレスコート」(多目的広場)のあたり。
文化湯(代官山)2015

文化湯の廃業を伝える新聞記事
読売新聞1995年6月15日朝刊都民版24頁
「文化湯が廃業」読売新聞1995年6月15日朝刊都民版24頁bis

文化湯が廃業
代官山の名物銭湯
のれん上げ50年 大空襲耐えたが客足遠のき…

旧同潤会・代官山アパートの隣で、戦時中から営業してきた渋谷区代官山の銭湯「文化湯」が、同アパートを中心とする再開発計画に伴い、今秋廃業することになった。東京大空襲をかいくぐった九谷焼のタイル絵、籐の脱衣かご、体重計が今も使われており、経営者の森向文子さん(64)は「処分してしまうのは惜しい。役立ててくれる人がいれば喜んで差し上げたい」と引き取り手を探している。

「文化楊」がのれんをげたのは一九四五年。同区道玄板で銭湯を営んでいた森向さんの父親が、知り合いの紹介で関東大震災直後から営業していた銭湯を引き継いだ。両親が亡くなってからは、開店当時は十五歳の、“番台娘”だった文子さんが経営を引き受け、現在は叔父(89)と番頭さんの三人で営業している。
浴槽を見下ろす自慢の九谷焼のタイル絵は、父親が特注で作らせたもので、「客が来い」をもじってニシキゴイや金魚が描かれている。九谷焼独特の赤の濃淡が美しい作品だ。当局の銭湯ではよく見られた図柄だが、現在は珍しいという。
東京大空襲の夜、「文化湯」の天井を突き破った焼い弾は、積んであった脱衣かごの上に落ちた。幾つかは焼けたが、五十個は延焼を免れた。「あの時は、家から慌てて飛んできて浴槽の水で消し止めました」と森向さん。脱衣所の天井には今も当時の焼け跡が残っている。
何千人もの裸を映してきた幅四メートルの大鏡、道玄坂時代から使っている木製の番台は今もピカピカに磨き込まれ、ひびひとつない。
戦後の十年間ほど、「文化湯」は親子連れでにぎわっていた。代官山という土地がら、テレビドラマのロケーションに使われ、渥美清さんや大空真弓さんが入浴したこともある。
今は、お客のほとんどがお年寄り。開業時から通っている、家族同然の付き合いの八十九歳のおばあさんもいるが、一日の客数は五十人くらい。「やればやるほど赤字。ほとんど社会奉仕のつもりでやっています」と森向さんは笑う。
「再開発の工事が終わったら、必ず戻ってくるから営業を続けて」という訴えも多い。森向さんも数年前は「マンションの中のいこいの場として銭湯を続けよう」と考えていたが、「年をとって体力の面からも、潮時」と引退を決めた。「その日までこれまで通りにやって、静かに去りたい」というのが現在の心境だ。文化湯の煙突も来年早々には下ろされ、数年後には超高層マンションが建つという。

写真=九谷焼のタイル絵を惜しむ「文化湯」の森向文子さん

 

(2)「弘法湯」(渋谷区円山町81、住居表示実施で渋谷区円山町23-2)
後掲の新聞記事によると、古くからあった共同浴場を引き継いで明治時代に創業、1979年に廃業。

読売新聞2016年3月28日朝刊都民版33頁
神泉「弘法湯」読売新聞2016年3月28日朝刊都民版33頁bis

東京の記憶
神泉「弘法湯」
花街温めた風呂の縁
芸者も子供もみんな家族

渋谷区の京玉井の頭線・神泉駅近くの路地に「神泉湯道」と刻まれた石碑がひっそりとたたずむ。同区の神泉、円山町周辺はかつて料亭が集まり、あでやかな芸者が街中を行き来する花街だった。その街中で1979年まで親しまれたのが銭湯「弘法湯」だ。

「いつもきれいなお姉さんたちが列を作っていた」弘法湯を開業した佐藤重蔵のひ孫で、現在は区郷土写真保存会副会長の佐藤豊(65)=写真=は、小学生の頃を振り返る。午後3時になると、弘法湯には仕事に行く前の芸者が風呂道具を手に並び、開くのを待っていた。風呂を浴びた後は、美容室で髪を整え客の待つ料亭に向かったという。この付近は湧水が豊富で、江戸時代には、富士山詣でや大山詣での人たちが、共同浴場を利用して疲れを癒やした。古くからあった共同浴場「弘法湯」の権利を譲り受け、豊蔵が明治時代に経営を開始。その後、料亭を併設すると、周辺には、ほかの料亭や芸者の置き屋ができ、花街として栄えるようになった。大正時代には、地域の働きかけもあり、政府が「置き屋、待合、料亭」の3業種の経営を許可し、芸者遊びのできる「三業地」になった。近くの現在の代々木公園に日本陸軍の「代々木練兵場」があったことから、軍人の社交場としても発展。多いときには置き屋が130軒、芸者は400人に上ったという。

弘法湯のすぐ近くには、芸者が履くための下駄を売る「金丸屋」があった。この店の河野豊(65)=写真=は小学生の頃、夕方になると家族と一緒に弘法湯を訪れるのが日課だった。当時、風呂のある家庭は少なく、弘法湯はいつも見知った顔ばかり。同級生とはしゃいだり、勝手に湯船に水を足して温度を下げたりすると、近所のおじさんに怒られる。街全体が家族のような雰囲気だったという。
料亭「良支」の2代目で、円山町会長の大嶋正義(71)=写真=は幼い頃に麻布十番から引っ越してきた。小学生の時から厨房に出入りし、夜中の0時頃になると、料理人の後について弘法湯に行った。夜中の風呂場は仕事を終えた仲居や板前、芸者らたくさんの職業の人々でにぎわっていた。

「神泉、円山町界隈には、周囲とは違う情緒があった」
同区富ケ谷で生まれ育ったタレントの井上順(69)=写真=は懐かしむ。八百屋や酒屋が並ぶ商店街から、神泉、円山町へ一歩足を踏み入れると、昼間から三味線を練習する音が聞こえ、細い路地を芸者が歩いていた。
井上は芸者とすれ違う度に、子供心に「どんな生活をしている人なんだろうなあ」と思いを巡らせた。井上の自宅にはまきの風呂があったため、弘法湯につかったことはなかったが、弘法湯の近くに多くの同級生が住んでいたため、名前だけは知っていた。
家庭風呂が普及すると、弘法湯を訪れる人は次第に少なくなり、79年に閉業となった。跡地にできた喫茶店「カフェ・ド・ラ・フォンテーヌ」は、地域の人が街づくりを協議する場となった。井上も年に数回、店で聞かれる会合にサポート役として顔を出し、地域の将来について話し合う。
弘法湯近くを通る曲がりくねった坂道は、「三業通り」と呼ばれた。地域おこしの一環で昨年9月、この通りの愛称が公募され「裏渋谷通り」と名付けられた。現在はおしゃれな雑貨店や料理店が並ぶ。弁上は「時代に合わせて街は変わるけれど、地域の人のつながりは後世に受け継いでいきたい」と語った。
(敬称略、山田佳代)

写真=取り壊される前の弘法湯。午後3時頃になると、芸者が列を作った(佐藤豊さん提供)

1970年 神泉駅前にかなり広い敷地をもっていた。

弘法湯(神泉)1970

2015年 弘法湯の建物があったあたりには「アレトゥーサ渋谷」という地上8階建てのビル(1993年竣工)が建つ。「アレトゥーサ」とはギリシャ神話に登場する泉の精霊である。

弘法湯(神泉)2015

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